博多祇園山笠から消えた福神流

今年で778年目の開催年となる博多祇園山笠ですが、最近になって100年ほど前に消えてしまった福神流という流についてのお話を聞きましたので記事にさせてもらいます。

そもそも流れ(ながれ)とは、十数カ町によって構成された自治組織の呼称で、豊臣秀吉時代に行われた「太閤町割」に端を発した博多の町の区画分けの単位であり、現在でも博多祇園山笠や博多松囃子などの運営単位となっているもの。
つまり 流れ(ながれ) とは昔の地区の呼び名ということです。

福神流については、古くは魚町流と呼ばれ西門橋から西へと伸びる横筋を区域とし、町名町界整理後の現在の住所においては上呉服町ならびに店屋町がこれに相当していました。

福神流はかつては博多祇園山笠に一つの流として参加していましたが明治38年(1905年)6月13日(旧暦)の追い山ならしの時に、時計係が太鼓と雷鳴を聞き誤り山留めの竿を上げてしまった事により、二番山の福神流が定刻より1分速く櫛田入りしてしまうという事件が発生。

しかも、それをきっかけに三番山以降の各流が時間を無視して出てしまい、その結果、東長寺清道から承天寺清道の道に五本の山が並んでしまう大事件になってしまいました。

これにより大紛争となるに至り、最初に間違ってスタートしてしまった福神流はその責任をとりそれ以来、福神流は不参加となってしまいます。

翌年からは、中洲流の加勢町として参加。
しかし昭和41年(1966年)に中洲流より法被の統一を要請され、伝統の法被を脱ぐ事は出来ないとし昭和46年(1971年)まで山笠に不参加となる。

昭和47年に「山笠に参加出来ない子供達が不憫」であるという嘆願により東流の前走りに参加するも、昭和60年(1985年)東流の「法被を脱いでくれたら本流に」という誘いに対し、流内の協議の結果、伝統法被の継承を採択しまた不参加となる。

昭和61年(1986年)より恵比須流に参加を依頼され現在に至っているという状態です。

不祥事よりもう100年は経っていることですし恩赦(今年は令和元年。天皇陛下の代替わりなど恩赦のタイミングとしては丁度良いのではないのかと思いますが。)で復活とはならないのかなと個人的には思いますが伝統というのはそういったところが少し面倒な気もする今日このごろでした。

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