概要
福岡市城南区にある神社で、鎌倉時代の肥後(現在の熊本)の武将、菊池武時を祀っています。
由緒等
天狐三年、後醍醐天皇の命をもって九州博多の地にあった九州探題の北条英時を討つため、一族を率いて錦の御旗を翻し肥後の國を出立、三月十三日未明より博多の在所を攻め始めるが、同盟を交わした大友貞宗・少弐貞経が北条方へねがえった事を知った武時公は「日本一の不義者に頼ったことが自分の落ち度であった」と加勢なしに大いに奮戦、北条秀時がこれまでと覚悟し自刃しようとしていたその時、大友氏と少弐氏の千騎あまりから背後より攻め込まれ「万事休す」と天を仰ぎ、嫡子と武重を側に呼び、「お前は菊池に戻り城の守りを固くし再び兵をあげる機会を待て」と己が袖を破り「故郷に今宵ばかりの命とも知らでや人の戦を待つらん」と辞世の句をしたため持たせ帰した後、ご自身は最後まで戦い天狐三年三月十三日非業の死を遂げられました。
武時公の死後厳しい監視の手をかいくぐり、家臣達は武時公のご遺体を肥後へ帰そうと試みましたが追っての厳しさゆえこの七隈の地に埋葬しました。その後長い間その地は放置されておりましたが、ある時村人の夢枕に武時公が立たれて「われここにあり」と言われたその地をその地を掘り返したところ地中より太刀が出てきたことによりこの地が菊池武時公の墓所であると判明しました。
その後、文政十年に黒田家家臣二川相近が吉野山の桜を本墳墓の傍らに植え御霊を慰められ、天保二年には菊池氏の末裔であった城武貞が黒田藩主の協力を得て荒れ果てている墳墓を整え、墓碑を建てられました。翌天保三年三月十三日、武時公の没後五百年にあたるため、城武貞が祭主となり五百年祭が、藩主黒田斉清公より金箔を賜り盛大に挙行され、この地が武時公の墓所と万民の知るところとなりました。
そして明治二年、福岡藩主黒田長知公の命により奉行を中心に王垣を建設、手洗い鉢が奉献され神社建立となりました。
(境内の看板より)
御祭神
菊池武時(きくち たけとき)
埴安命(はにやすのみこと)
境内の様子
神社へのアクセス
福岡県福岡市城南区七隈7丁目10−1