太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)- 大宰府市

太宰府天満宮について

福岡県太宰府市にある大宰府天満宮は学問の神として知られる菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祭神として祀る天満宮のひとつです。
(なので受験シーズンはとても多くの人が押し寄せます)

天神信仰(てんじんしんこう)発祥の地であり、京都府京都市の北野天満宮(きたのてんまんぐう)と共に全国に約12,000社ある天神信仰の総本宮として称えられています。

その中でも大宰府は日本を代表する天満宮に数えられており、新年の三が日には約200万人の参拝者が訪れる全国でも非常に有名な神社です。

実際、太宰府天満宮は名前だけなら日本人の誰でも知っているレベルの神社でありましょう。

また、春(2月下旬から3月上旬ごろ)には道真公が愛でられたという梅の花が咲き誇り、一年の中でも格別に美しい景観を見ることができます。

下の写真のよう。日本建築の赤橋と花ってのはなぜかグッとくるものがあるのですよね。

宝物殿には、国宝 翰苑(かんえん)巻第三十(※1)はじめ重要文化財の梅月蒔絵文台(ばいげつまきえぶんだい)(※2)や蓮華唐花文塼(れんげからはなもんせん)(※3)・太刀(銘:俊次)(たち めい としつぐ)(※4)等あり、宝物殿入り口前には有形文化財の麒麟(きりん)像および鷽(うそ)像 など数々の貴重品が保存されています。

宝物殿は内部での写真撮影もフラッシュ無しならOKです。

下の写真は宝物殿の外で見れる麒麟(きりん)像および鷽(うそ)像になります。麒麟はともかく鷽という生き物は自分は知りませんでした。

右側のキョロちゃんみたいなのが鷽という生き物らしいです。なんかヌボーッとした顔してます。

麒麟と鷽の像になります。

こちらは左記画像の看板を拡大したもの。

※1・・・660年以前に対句練習用の幼学書として書かれたとされている。唐の時代に張楚金という人によって書かれた類書で後に雍公叡という方がさらに注を付けました。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみ”写本”が残っています。

※2・・・文台とは、低い脚の長方形の小机で、冊子・短冊・色紙などをのせる台になります。この文台の裏面には享禄元年から天文13年(1528~44)にかけて太宰府天満宮の留守職を務めた小鳥居信元の名前と花押が蒔絵で記されているそうです。太宰府は連歌会が盛んだったようなのでそういった時に使用されていたのかもしれません。

※3・・・塼(せん)とは宮殿や寺院の床や壁に使われた、現在のタイルにあたる焼きものです。一般的には無文のものが多いのですが大宰府に収められているものは花文がデザインされており当時(平安前期)の日本では珍しいものとなっています。

※4・・・刀剣。長さ60.1cm、反り2.1cm、柄長17.8cm、刃文は直刃で乱交、表裏とも刀樋掻流。鎌倉時代の青江俊次の作です。平安末より鎌倉初期を通じ古青江派の刀工には名工が多いですが、現存する作品は極めて少なく保存状態のよりこの刀剣は貴重なものらしいとのこと。

 

ご祭神

菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

日本では知る人ぞ知る、学問の神様ですね。

【生前(人として)】

菅原家は、道真公の曾祖父古人公の時代に、土師(はじ)氏より氏を改めた家になり、学問をもって朝廷に仕える家柄です。

5歳で和歌を詠み、その後も元慶元年(877年)には、若くして(30代前半くらいか)学者としての最高位であった文章博士(もんじょうはかせ)となるなど躍進を続ける人生を送っていました。

その後、当時の宇多天皇が醍醐天皇に譲位されますが、そのまま道真公は重用され続けました。

 

昌泰2年(899年)には右大臣に昇進。

しかし、家格を超えて大臣に登るという道真公の昇進に対して妬む廷臣も多く、朝廷内の道真公の周りでは不穏な空気が漂い始めます。

その後、昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられましたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され大宰員外帥( だざいいんがいのそち ) (※1)に左遷されます。

 

道真公を重用していた、宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしましたが、醍醐天皇は面会に応じず、とりなすことはできませんでした。

また、道真公の長男を初め、4人の子供流刑に処されてしまいます。

この時点で冤罪により散々な目にあっていますね。出る杭は打たれるの典型例のような状態です。

 

この事件の背景については、権力者であった藤原時平による全くの讒言とする説から宇多上皇醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真公が巻き込まれたとする説まで諸説あるとのことです。

 

左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していましたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られます。享年59。

改めて見ると、道真公は大宰府への左遷後すぐに亡くなっており、太宰府での滞在期間はそれほど長くないこともわかりますね。

実際に調べるまでは自分も道真公はもっと長く大宰府に滞在していたのかと思っていました。

 

道真公が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌は有名です。

その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」もあり、これは今も大宰府天満宮本殿境内で見ることができます。

 

※1・・・朝廷の鎮西総司令であり、九州地域の兵権を掌握する立場の役職になります。中国(宋)との交易の利権も大宰府に集中したことからその利権の望んで、自ら就くものもいたようですが、その一方で大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多い役職でした。道真公も後者にあたるように見えますね。

死後(祟りから祭神へ)

実は日本三大怨霊として「菅原道真」「平将門」「崇徳天皇」と並ぶ怨霊のボスクラスでもある道真公については、死後の逸話から成り立ちます。

 

道真公の死後、そのご遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなりました。

これについて、道真公がそこに留まりたいのだという遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号し、道真公天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格祀ります。

 

一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去。

これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真公の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮(太宰府天満宮の昔の呼び名)の創祀となります。

 

その後も道真公の祟りは収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳の若さで死去。

朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真公の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈します。

亡くなった後の道真公への朝廷の気の使いようを見るに冤罪事件への自覚と後悔が多々あったのかもしれません。

 

しかしそれでも祟りが沈静化することはありません。

保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去してしまった。

 

そして延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷が。

貴族中にも死傷者が出る事態となった事件(清涼殿落雷事件)が発生。

この後から菅原道真公は雷の神様である火雷天神とされるようにもなります。

 

天皇は助かりましたが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至ります。

 

この時点で30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになるという状態に。

祟りは鎮まらず、道真公には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は高まります。

 

ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至り、寛和2年(986年)、道真公の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事(※1)が始められるようになりました。

 

そして各地に祀られた祟り封じの「天神様」は災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっていきます。

道真公の祟りに対する恐れは薄れるのに数百年はかかっているようで、今では親しまれていますが何世紀にもわたり祟り神だった天神様の存在が浮かびますね。

 

余談ですが、本殿については兵火などによる火災で一度焼失してしまい、現在の本殿は天正19年(1591年)に小早川隆景により再建された安土・桃山建築で五間社流造りの檜皮葺。昭和25年(1950年)に重要文化財になっています。

 

※1・・・1月7日の夜、年の始めにあたり、その年の災難消除や開運招福を願い、境内東神苑にある鬼すべ堂にて行われる勇壮な火祭りで現在でも行われています。

 

拝殿と本殿

太宰府天満宮には拝殿がありません。

あるのは本殿のみです、また本坪(お賽銭箱前の鈴)もありません。

もともとは菅原道真公の霊廟としてあり、その上に建てた神社であることからか、他の神社とは作りが違う部分があるようです。

本来なら神社でご祭神をお呼びする本坪もないのは、道真公は常にそこにおられるのでしょう。

 

本殿内は広く、敷地には梅の花が多々植えてあります。

また、ぐるっと囲むように立ち並ぶ建物のほぼ全てお守りなどを売っているお店になります。

 

正面向かって左側には、絵馬、御朱印帳などを販売している窓口があり、御朱印自体もここで頂けます。

また、この窓口で大宰府天満宮のさらに奥にある天開稲荷社御朱印も頂くことができます。

 

最後に天満宮の案内所などで配布している境内マップを使って各々細かい説明をば。

 

御朱印

太宰府天満宮では御朱印は初穂料1500円が必要ですが、御朱印に関してはお気持ちということで自分の思った額を収めればOKです。

とりあえず実体験としては大宰府天満宮、天開稲荷社の御朱印を頂きましたので各々300円として合計600円を納めました。

こちら太宰府天満宮の御朱印。

こちらは太宰府天満宮と同敷地内になる天開稲荷社の御朱印。

周辺のお店等

有名な観光地ということもあり飲食店、休憩所など多く割となんでもあります。

また、遠方から車で来る人のためにもコインパーキングも天満宮周辺には用意があります。

ただし、有名な観光地の宿命として常に人が多く、特に土日などはちょっとした縁日状態です。

太宰府にあるスターバックスコーヒーもその外観から有名ですが、この店舗も内部はあまり広くなく観光客が多い時には店内でゆっくりとはいかないのが現実です。

なのでゆっくりと見て回りたい方は朝一に到着することを推奨します。ただし、その場合で店、スタバなどの店舗はまだ空いていませんが。

ちょっと簡単に朝一と昼前の比較写真をお見せします。3月中旬ごろの風景です。

こちら朝7時過ぎ頃の天満宮入り口の通りになります。

こちら同じ通りの11時頃。立ち止まれない状況での撮影ですので写真が傾いてたりぶれてたりはご勘弁を。

 

朝7時過ぎ頃の神社本殿。

こちらが11時となります。やはり人が多い。この頃になると観光バスとかも到着して外国の観光客もたくさんになっております。

その他の情報

【受験シーズの混雑】

のんびりと観光したい人、人混みが苦手な人は受験シーズンは避けての訪問が吉です。

受験シーズンは正月の初詣に続いて、太宰府天満宮の繁忙期になります。

だいたい1月下旬から2月末くらいを避けてもらえれば初詣状態は避けられるかと思います。

 

【宝物殿、遊園地、博物館】

太宰府天満宮の敷地内には宝物殿、遊園地、博物館があります。

こちらは各々有料で別料金となっています。団体割引とかもあるようです。

 

【梅の花】

太宰府天満宮は言わずと知れた日本有数の梅の名所。

1月下旬~3月上旬には約200種、約6,000本の白梅・紅梅が咲き乱れてます。

前述の受験シーズンを避けるなら3月上旬あたりに見に行くのがよいかもしれません。

 

【紅葉】

11月中旬~12月上旬には紅葉も楽しめます

大宰府天満宮へのアクセス

大宰府天満宮は福岡市から車で30分と非常に行きやすくなっています。

また最寄りの大宰府駅は大宰府天満宮の目の前まで伸びているので、
利便性が高いです。

住所の方はこちらになっています。
↓↓↓↓
福岡県太宰府市宰府4丁目7-1